kokorononekkoのブログ

自分が裸になることで見えてきた景色たち

平等ではない事実を知ったうえで個性を活かす

人間皆平等 っていうけれど
きれいな言葉だけど
ちがうよね


ずっとその言葉の意味を
思えば小学生の頃から聞かされていて


自分で意味など考えたことすらなかった


私は鈍感だから
長男がハンデを持って生まれてきたことで
ようやく気が付いた
こうした意味を考えてきていなかった自分を目の当たりにした
そう知った当時の自分というのは情けないほどに
いろんなことに対して、偏見、思い込みの塊だった


診断を受けた当時は
とりあえずなんだかめちゃくちゃショックだったけれど
今思うと当然のこと
自分の偏見、思い込みが自分を勝手に苦しめているという
幻想が幻想を生み 
もくもく膨らんだ幻想の中で一人で苦しんでいるだけだったのだ


長男の知力がたまたま、今の
社会的な”障害者”っていう枠におさまったというだけの話
それが現実だったのに
その現実にたどり着くまで
自分の幻想、偏見、思い込みを取っ払うのに
すんごく時間を費やした


今は
誰でも凸凹はあるのだとわかっている
私だってそう



平等なわけがない
生きる世代、
生まれ育つ環境、
生まれ持ってきたギフト、
それらは明らかに違う


違う 前提だけれども
平等では絶対にないけれど


客観的に見て
良い・悪いのジャッジはいらないのだ



そうではなくて


平等でないからこその、個性、オリジナリティ


ここに目を向けることで
活きてくる価値だってあるということ


長男は社会的には”ハンデを持った人間”とされているとおり、
私たちの押し付けられている”普通の社会人”は
この先、全うできないだろう


だけど
とにかく純粋で空間の気を映し出し鏡のように私たちに見せつけることだってできる
長男が突然怒り出すときは家族の誰かの機嫌が悪い時なのだ
言葉にしなくとも
その言葉にならない気を読み取りそのまま彼の行動へと映し出す


思えば
私の受けてきた学校教育は
ジャッジの連続ものだった


”平等に”
”公平に”
学校の中ではこうして皆扱われてきた
その中で優劣を決めていく
一人一人、細やかに決められていった
絶対的評価、偏差値という秤でもって
その秤こそが絶対的なものかのように、その存在のもたらす脅威は大きかった


家の中で
理不尽な扱いを母から受けていた私にとっては
まぁ、そんな学校でも家と比較して
学校の方がのびのびできていたのだけど


平等にしてくれるから
そのほうが心地よかった っていう異例な私だったからだなぁ



集団で生活するということは
もちろん
”えこひいきしない”という意味で
”みんなが困らないように” という意味で
そういった視点の中では
平等、公平 その言葉も時には
必要になるということは知っている



だけど
人間同士 相性だってどうしたって出てくるもので
平等、公平 というのはどうしても自分の中で
100%できなかったし
できる人だっていなかった


だって人間なのだから
100%っていうことはできない、それが当たり前だから


大切なのは


平等と公平の表す言葉の価値だけじゃなくたっていいということ



個性を蔑ろにして
平等にすることはない


生きていくうえで


個性は伸ばすもの
伸びていくもの
逆境に立ち向かうエネルギーに変化させる種なのだから


個性がなければ
いざ逆境に立たされた時に
太刀打ちできなくなるのだ


自分らしさ
自分ながらのやり方
自分であるために必要な環境
それをととのえていくということこそが
生きていく力になるのだろうな4


占星術で表される
生まれ持った地図 は、一人一人違う
残念ながら
今この社会的に見て幸運と解釈される図もあれば
そう言い難い図もある、私もこちら側なのだろうと思う


だからこうして
今もがいているわけだし
だけど


不運があったり、
もしくはこのまま楽な道に進み続けることはできないという出来事に遭遇して、
そこでこうしてもがくからこそ


見えてきた


重く暗いフィルターを外して見えてきた景色たち、
そこから生まれた本当の自分。


それって
ほんとに自分で言うのもなんだけど
いとおしい存在そのもので


これを大事に大事にしようと思う