kokorononekkoのブログ

自分が裸になることで見えてきた景色たち

癖を戻していく必要がある

先日
ハンドセラピーを練習させていただく機会にお誘いいただいて
半日かけて6名の方の施術を行った


それはもう
様々な感想があった


感想を伝えてくれる人
効果を尋ねてくる人
私のしている行為のエネルギーを説明してくれる人
どんな資格があって施術してるのかを尋ねてくる人
ただ気持ちいいと言う人
お金をとってほしいと言う人


正直
いちいち揺さぶられかける自分がいた


これまでの癖が抜けていない自分に愕然とした



私は
練習をさせてもらいたくて
場所をお借りして
もちろん練習なので無償で提供する


なのに


それでも


無償でも、
”人に気持ちいいと感じてもらえたらいいな”
”人が納得して施術を受けてくれるといいな”
そんな期待が
むっくむくと大きく自分の内側を占めてくるこの
なんていうのかな
過度な
私のエゴが
私の勝手な相手への期待となって表れてくる感じ



いや、
気持ちよくていいし
納得してくれて
もちろんいいのだけど


それを
私というエゴは勝手に
そこへ
過度に期待をしている


過度な期待というのは問題なのだ



そんな
過度な他人への期待・・
”自分のしたことが相手にとって心地よく、納得できるものだといいな”
という
勝手な期待を乗せる癖が私にはあるのだ




その癖はなにゆえかと深堀してみると



五感で気持ちいいことが大好きだし、
自分は大切にしている
そして
納得して行動することが好きで、
自分の行動には何かしら納得できる何かを見出そうとしている
という 
自分の心地よくいられるポイントというのが私にはあるのだ


きっと
それゆえの
相手への期待


自分が心地いいと思えることを
相手に提供したいということに繋がったのだろう



だけど


その癖を、人に押し付けてはだめなのだ


わかっているはずなのに
気にしているということは


自分の感覚を他人に押し付けて
さぁどうかな と じっと見ている  
というこれもまた
アタマでの理解を超えた自分の癖としてあるということなのだ




自分が
気持ちいいと感じたから、
納得できる内容だったから、
自分はこれを使って人と関わっていくということを決めたという
それだけのことだけが事実で、それも私の自由な範囲での私の決意であって


それを人に提供していることにつながる ということ


ここまでは自由意思に基づく行動だけど


それを
他人がどうとるのか?という
相手の受け取りは人にゆだねるべきであるということと
その受け取りに自分は全く関与するべきではないということ


気持ちいいのか?
納得できる内容なのか?

ずっとわからないものだということ


自分のできる範疇のことを施術する
説明を求められたなら自分の範囲の説明をする
それだけなのだ



人によって
同じことをしても
心地いい人もいればそうでなかったり
妙に納得できたりそうでなかったり
反応が様々であるのが 当然だし
さらに言うと
いい時もあれば悪い時というタイミングの問題だってあるかもしれない
そこへ
私の期待を勝手に乗っけて
重くなっては
私の押し付け、私の自己満足 ということなのだ


受けたい人が受けてくれればいい
したくないときはしなくていい


それを
アタマではわかっているのに
まだまだ
心では理解していなかった、
もとの癖が現れてくるということがそう示していた




この癖を解消するべきだと思った
強く、そう思った


実践して気が付いた、癖


意図的に癖を変えていこうと思う
癖は
自分で強化していって習慣化したことだから
もどすにも
自分で戻す方向へ強化をしていき
その戻った状態を作り続けて初めて
もどった習慣となる


根気のいる作業だけど
実践していこうと思う




施術の実践から学んだことは大きい