kokorononekkoのブログ

自分が裸になることで見えてきた景色たち

煌めく心はいつも孤独

人は孤独なものだと思う。


家族も、友人も、同僚も、皆自分ではない。
自分一人でどれだけの時間を充実させて過ごせるのだろう。


私は小さいころから、良くも悪くも
一人っ子・なおかつ毒親 という環境にいて
常に孤独で生きてきた。


友人はいるけど、一緒にいる時間は楽しいけど
幼少期の私たちは親に言われるまま門限通りに帰宅。
家庭で過ごす時間が多くを占めていて、その時間が孤独。
親に想いを伝えられない、というよりも親が聞く耳を持たない。
なにかあれば八つ当たりの矛先にされていた。
お母さん、ごめんなさい。
お母さん、私のことを好きでいて。 そんな風に思っていた日々。


孤独を当然のこととして生きてきていたけど
今思うと不幸中の幸いだったのかもしれない。
孤独になれていたから今でも孤独がそれほど苦ではない。



世の人たちを見ていて思うのは、
充実=他人と一緒に仲良くいること と思い違えてはいないだろうかということ。


その他人は、
自分がありのままでいられる関係(良いもの)に恵まれることもあるけど
自分が取り繕い、時には勢力争いに巻き込まれ、多くの犠牲を払ってでないといられない
関係(悪影響を及ぼすもの)も多くあると思う。


特に、学校や仕事関係の場では、そういうことが多いのではないのだろうか。


誰かと一緒にいるために
嘘をつき、他人を悪く言い、時には傷つけてまで 
当たり前のように、そしてそれが大人としてあるべき姿と思い込んで
そうして生きているものなのだと改めて思う。



自分を見失わないように
自分を貫き通すことは、
簡単そうに見える。
「好きなことしてていいよね」とまで言われたりもする。
けど、本当は
一番勇気のいることで、一番難しいこと。


自分への容認・信頼がないとできないこと。
そしてそうしていると、いろんなことがうまく回っていく。
精神が安定し、安定が余裕を産み、その余裕こそ、
自分や他人を大切にすることに繋がる。


そうするとその影響を受け、連鎖し、広がっていくのではないのか。
何も言わずとも、説教せずとも、そうしている人を見て、
自分もこうでありたい、という、
主体的な、極めて理想的な形でそうなっていくのではないかと思う。



私が自分を見失っていた時、SOSを出すと、助けてくれた人がいた。
その人は、一般的なものの見方をしない人。
見えないものが見え、それを一番に考え大切にする人だった。
地位、お金、名誉、など他人から評価されやすいわかりやすモノは二の次で
見えないもの、心、想い、願い、夢を何よりも大切にする。


それを大切にしながら私を解きほぐしてくれたことで、
私は解放され、さらに
その人と同じように、それらを大切にできる人でありたい、いや、むしろ、
本来はの自分はそうだった ということを気づかせてくれた。


見えないものは人を混乱させる。
余裕のない世の多くの人は、見えやすいもので他人を評価し、
自分もそうされると考え、評価されやすいように自分の想いはそっちのけで行動する。


その意識は、自己中心的、かつ、人への攻撃性を持つ人を作り上げる。
そうしている人が多い今、基本的に孤独で人とつながりたい欲求のある私たちは
群れるために、慣れ合うために、さらに人を攻撃し、仲間意識を保っていこうとする。


結果、見えないものを大切にする人を攻撃する。
見えないものを大切にする人は、人を非難しないから。
そうして、さらに孤独に陥る。
孤独に耐えることができることが、
この世の中ではまず必要不可欠な強さの秘訣なのだろうと思う。


あえて孤独を選ぶことのできる人ほど強い。


そう信じて、そんな人は世の中で少数ながらも
誰も非難することもなく、地道にただ自分の思う人生を進んでいるということ。
共有できれば少しはさらに強くなれた気がするのではないだろうか。。
そうしている自分をよいものと思えるのではないだろうか。
孤独からくる不安から解放されるのではないだろうか


ではリアルに確信をもって共有するには・・・?


真っ暗闇の世の中で、輝いた点と点をつなぐ、
その輝きをたたえ合うことのできる、そんな場があればと思う。



考える矛先が見えたと思った今日。