世界をワープして
小さい幸せはあっちこっちにあって
それを味わいつくす瞬間瞬間。
その連続。
この幸せ現象は何なんでしょう??
忘れもしない6月のおわりにふとぽーーーーんって
違う世界に来てしまっていた私。
っていうと変な人みたいだなぁ。
それはたとえるなら大地震のような感じで。
ずっとずっと心に傷を受けるたびに違和感のような、心の奥底では自分を構成するプレートとプレートが動いていて。
今振り返ってみると余震は1年ほどかけて何度も何度もあった。
少しずつ、大爆発にかけて形を変えて準備を整えていたのかな。
もっと、もっと、大きく飛躍できるように。
そして本震の起きた瞬間、
それはものすごいエネルギーが沸き起こって突如、私を違う次元に飛ばした。
飛ばされたときは怖かったのを覚えている。
どうしよう、どうしよう、もう生きられないのかもって思った。
自分の中で当たり前と思っていたものが覆ってしまって
信じていたものが嘘だったってわかって
信じながら大切に築き上げてきたものが崩れ落ちてしまって
目を背けていたかった。
それを認めるともう生きられないんじゃないのかなって思って背けている間、
宙を飛んでいたのかもしれない。
でもそうして飛ばされて、飛ばされて、
目を背け続けてずっとこうして飛んでいようとしても、
すでに着地してしまっていてて。
着地してしまったその世界の気配は平和な感触で。
目を背ける必要はないのかもしれないって思った。
目を見開いたときにとびこんできた世界は明るくって鮮やかで、どんなものにも心が宿っている。
何もないただの空や川だった風景は
いろんなことをメッセージで私に、大切なことをおしえてくれている、
そんな、まさに、天国のような世界だった。
不思議不思議。
そんな世界に来て半年経とうとしていて改めてわかってきたこともある。
小さい時の私には逃げ場のなかった、
すっごく狭くって暗くって沈んでた、
圧力と形式に固められた悲しくって絶望しかない世界。
そこにずっといたことに気づいてから、母のせいだと思っていた。
母が、私をその閉ざされた部屋から出ることを許さずに
出ることのないようにずっと見張っていたんだと思っていた。
そこからぽんって抜けたときは
抜けられたことがうれしくって、
世界の広さとか、良さを十分に感じられて、幸せを感じながら、
でもまだまだ母に対して憤りがあったりしていて。
若い時代をあんなひどい部屋に押し込めてどうしてくれるのよ、
可能性のあった時代を返してよね、なんて思っていた。
本音では心穏やかな両親とともにこのしあわせ世界で幼少期を過ごせていた人を心のどこかでうらやましく思っていたみたい。
なのに
この世界でどーしようもない幸せばかりの中に身を置かせてもらって
毎日を過ごさせてもらっていると
その監獄のような部屋にいた自分の幼少期は
二度と戻らないんだって気づきセンチメンタルにさえも思う。
今のこの幸せの中には絶対に存在し得ない、
怒り、憎しみ、軽蔑の悪循環。
私は二度と味わうことがないだろうな。
接点をもつことすらない。
私のきたこの世界にそれはない。
ときどきそんなものを他人に感じてもただ、そこに私と違う世界があるだけ。
その世界で監獄の番人であったかのように感じていた母は、私を見張っていたんじゃなくって、本人の信じている世界の中での最善の行いとしてそうするしかできなかった人であっただけ。
そこで生きている母のような人たちを、どうか救いたいと思うけれど
違和感を抱えていない人はあがきもしない、
ただ悪循環の中のどこかに身を置いている。
攻撃を受けるのが嫌なら攻撃する方に回るっていう思考回路。
きっと、それがあたりまえのまま人生の終わりを迎えるんだろうなって思う。
そんな場所に34年間も、違和感を感じながらも抜けられないまま過ごしてきた
自分の若い時代の人生は、きっとこれからの人生をさらにきれいに輝かせてくれることと
思えてくる。
振り返って例えるなら、ここにきてまたひとつ卒業式を終えられたような感じがした。
ここでの学びを、自分に残っているものとして、活用していきたいって思う。
憎むべきものではなくって、ただ、そこにあって、今も存在している世界。
なんでその世界が多くの人を住まわせながら存在しているのかを考えると、
私がそうであったかのように、抜けたときのしあわせをマイナスからプラスに、ゼロからスタートするよりももっともっと大きく感じられるから・・のようにも思えてくる。
伝えていけたらいいなぁ。
気づく人が、増えたらいいなぁ。
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