kokorononekkoのブログ

自分が裸になることで見えてきた景色たち

女性の自分と男性

今でこそジェンダーフリーが認められてきているけれど
日本の歴史は長らく、男性・女性の2分。


私は身体的に女性だったから幼い時から女性として育てられてきたし
これまでも何一つ迷いや戸惑いもなく
今も女性として生きている。


ただ一時期、男性化しようとしていた自分がいたと、
今になっては思う。


なぜなら女性の自分が周囲の女性に嫉妬されることが怖かったのだ。


はっきり覚えているのは小学校の卒業アルバムに
なぜか普段の2割り増しで可愛く写ってしまった自分に
周囲がこれまでのさえない自分には絶対にしない反応をしたのだった。


それは、もう・・


嫉妬。


でしか、ない 笑


その時、きっと無意識に思ったのだ。
女子らしくしないほうが賢明なのだ、と。


そこからはずーっと、私らしい女性感を抑え続けてきたし
抑えていることが当たり前なので
抑えていることすら気がつかずに
女性らしい格好をしなかったし、言動も男子寄りに振舞っていた。


時折デートなんかの時にだけ
女子っぽく決める自分を可愛く思ったりして楽しんではいたけど・・
それでもその女子っぽい自分は、彼氏のためでしかないと思い込んでいた。


可愛い格好、女性らしい振る舞い、姿勢、
いい匂いのもの、綺麗なもの。


全部、彼氏のためにしている。
そんな自分はちょっと可愛い、女子でよかった。
・・・くらいのもの。


今はね、はっきりと思える。


私は女子の中の女子なのだ。
可愛いもの綺麗なものは大好きだし
自分をとことん好きだし、心地よくなるようにいろんなものを与える。
匂いだって、随分こだわる。


そして
女子を味わい尽くすと
見えてきた、男性の苦労。


なんていうのか、
女性は女性自身で満たせてしまうのに対して
男性は、外部にあるものを介してでないと
自分を満たし切れない。


一瞬満たせたように思えても
きっと、女性のそれにはかなわないことを水面下で知ってしまっている。
だから、
一瞬の高揚の後はまた戻ってしまって
そしてまた、外部を求めてしまう。


体の構造と性の関係がそれを象徴している。


快感の感じ方の違い、
全て持ち合わせているのとずっと何かが欠けているという違い、
それをわかってしまっているけれど、どこか認めたくないのだ。
だってずっと頑張っているから。


ホンモノに出会ってしまった時なんて地獄だろう。
だって、ホンモノを手に入れても
自分は次を求めてしまう
それが直感的にわかるから
簡単に手に入れようとできないで固まってしまう、動けない。
欲しいものこそ欲しいと言えない。
ホンモノを抱きしめていたって
そのうちにまた一瞬で高揚が終わることがわかっていて、
それを体感することがとっても怖い。
そして代わりとなるもので埋めようとする自分を見つめてしまう。


そんな苦悩の中でいつだって『頑張っている』度合いが強いのは男性性だと
私はそう思う。


いつだって、何をしていたって、満たされた気がしたって、
やっぱり足りない。
だからこそ!と頑張ってしまう。


苦悩の連続。


ただ・・・伝えたいと思うことは、
その苦悩があるからこそ
現実を動かし、何かの発見をしたり、築き上げていくことができるんだ。


可能性は大きく、それは素晴らしいことなのだ。
この体である以上、エンドレスだから、
ずっとずっと、上を向いて行こうとして行けるんだ。


そんな私とは違う 男性を
心の底から体の底から、応援している。