選ぶということ 思うということ
自分で選ぶ、ということ
長くそうしてこなかったということに気が付いた最近。
いや、気づいていたものの、それでいいと思うことにしていたという表現が近いかな。
産んで間もなくから手のかかる長男に、
「何事も思い通りにはならない」ということを
365日24時間、教え続けられてきていたような気になっていた。
そこから「母だから仕方ない、これでいい」と妥協することがうまくなった。
そう理論づけることで本当の自分と折り合いをつけていた。
「思い通りにはならない」理由を、子供のせいにしていた。
母になる前の人生においては、たいていのことは思い通りにすすめてきたつもりでいた。
お金や人をつかって、場所をつかって、自分は自分の思い描くイメージ通りに
生きている、
そう思うことで自尊心を保っていたような。
でもそこには 思い なんてほんのわずかなものだった。
カタチに、目に見えるものに、頼りすぎていた。
長男の教えは、この世に生を受けている人類皆平等に
与えられた条件として、当然のことで。
当然のことを、私はずっと知らないままに、気づかないままに、過ごしてきたというだけだった。
そもそも思い通りになんてなっていなかったし、
思いを 持っていることすら忘れてしまうくらい
忙しく、煌びやかな世の中で、
その中で自分をさらに忙しくさせ、自分を磨けているかのような罠にはまっていた私。
「思い通りにならなくて当然」
と
「自分はどうしていきたいのか」
という2つの側面を持った、【自分の考え】が存在するということに気が付いた。
思い通りにはならないことはわかった。
でも、本来はどうしたいのか。
心底思うことってどんなことなのか。
それは誰のための、誰の願いなのか。
全部、すべては自分だったっていうこと。
【誰かが】こう言うから、
【あの人が】こうしているから、
【常識的に言って】こうだよね、
【大人なんだから】こうしよう、
全部、【自分の受け止め方の作り上げた幻想】っていうこと。
【自分が】、どう考えるのか、
どうしたいのか、
どう変えていくのか、
何を大切にして何に挑戦するのか、
どんなふうにこの人生を生きるのか
この答えこそゆるぎない正解なんだと思う。
そして正解は一つじゃないし刻一刻と変わっていくものであるとも思う。
ゆるぎないようで、でも、流れて形を変えていくもの、
そんな、水の流れのような、でも、根底にある、確かなものだと思う。
それに気づけばどんどん選んでいける。
それですべてがいいんだと思う。
何事も、ひとつの理論で解決しないのはそんな性格をもったものが
誰にでも、確かに、あるからなんだといえば説明がつくのではないのかな。
思い通りにはならないかもしれない。
でも、思っていないとできないこともあるはず、と可能性も感じ始めている。
どんどん、選んでいくことのできる私の人生であってほしい。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。