kokorononekkoのブログ

自分が裸になることで見えてきた景色たち

お金

私にとってのいくつかのキーワードの中に
お金 がある


小さい頃から
お金が自分のネックになっていると
なぜか、常々思っていた
深い部分でわかっていたのだ


最近まで、心 や 体 というキーワードは意識していなかったところで
最近ようやく認識し使いこなしたり
自分の中で深めることになってきたのだけど


お金は
身近すぎて、見えて、計れて、作用も多くの人に影響を与えることのできる
万能なだけどだからこそ厄介なやつなのだ



当たり前に
学生時代が終わったら
社会人として
お金を稼いで
そのために
我慢や苦労を延々として
時間が来ればお金を使って気を紛らわせて
時間が来ればまた、稼ぐために我慢と苦労の渦に飛び込んでいく


そんなことが当たり前だと、思い込んでいた


・・・当たり前ってなんだ???


誰かの、自分を含めた多くの人の作り上げた便利な言い訳、”当たり前”


これにとらわれすぎていたんだ


当たり前 は 当たり前じゃないと思えたら
それが自分の当たり前なんだなぁ



お金は
我慢して苦労して稼いで
稼ぐためにした我慢や苦労を紛らせるために、使う
使ったからまた我慢や苦労をしながら稼ぐ・・
その連続じゃぁ経済活動でしかない


私にとってはいらないもの


と、ここ1年近く本気で思っていた


それも、長いこととらわれてきた当たり前からの反動で


いらないもの
と言いながら
稼いでいる自分がいた
我慢して、苦労して稼いでいた


ただ
使い方は変わっていたんだ
自分を喜ばせるものに変わった
自分のしたいこと、欲しいもの、
自分の好きな人のしたいこと、欲しいものに
うーんと、使っていた


これも反動。
ずっと、子供の将来のために使うことをセーブしてきていたから。
今 にフォーカスして、今の子供の気持ちを満たすためにも、たくさん使った


この反動を1年ほど続けてわかったこと


お金は必要だ
自分にとって、真に必要な分、必要なのだ
余らせてもいらないことに使ってしまうし
足りなくてもそれは困るから違う


ここで生を受け、
いろんな恩恵を授かり、
誰かに支えられているからこそ、
お金との関わりは無くせない


けれど


繋がっているということ


それだけなのだ


私はここに体を持って生きているし
3人の子供たちもいるし、自立するまで私が生かせなきゃならない


だから私と子供たちが、世の中の誰かと繋がっていられることは必要
ということはお金は必要


それだけのものなのだ


必要以上には繋がらなくていいから
生活できればそれでいい


一般的に
苦労や我慢をするほど
稼げる仕組みになっていて
多くの人がその土俵へ流れ込むからそこで集団独特の争いの作用が起こって
勝つと楽して稼げ
負けると苦労しても稼げない
だから勝ちたがるし集団に舞い込んできた苦労は
集団の中で苦労を請け負う人を仕立て上げそこへ回す


負けるのは大抵
優しい人 穏やかな人 他人と争わず調和を求める人
そうすることを選べる人


そういう人はそこで延々と我慢し続けるのがいいのか??
いや、そんなことをしてまで立派な自分を追い詰めるくらいならいっそ
その土俵から外れてしまえばいいんじゃないのか??


例えば
苦労や我慢をしないでも
自分のしたいこと、好きなこと


好きこそ物の上手なれ


したいことなら
心が潤うから頑張れるし
体はどんどん吸収していくんだから
負けないよ


集団から外れて、完全に個の枠組みで
好きなこと得意なことを生かして誰かのために時間を捧げる、共有する
そうすることでいただいたお金で誰かと繋がって、この世界で生きていく


そんなことができないものだろうか・・


今、何ができるかな